三原淳雄の言いたい放題 mihara-atsuo.com
プロフィール
キャピタル・パートナーズ証券
三原淳雄はキャピタルパートナーズ証券の顧問を務めています。
 

2011年10月13日
三原 淳雄

追 悼 文
 

三原が亡くなりました次の日の「宮崎正弘の国際ニュース・早読み」平成23年2月9日 通巻代3232号に宮崎先生が掲載して下さったおくやみですが、追悼文として載せさせていただきます。 
▼▼▼▼▼ 
おくやみ 
三原淳雄氏(経済評論家) 
●●●●● 
 
 三原淳雄さんとは九歳ちがうが、なぜか気があった。いつも清々しいという印象がある。知り合って四半世紀以上になるだろうか。最初は小生がダイヤモンド社(当時虎ノ門にあった)で講演したおり、真ん前で聴きに来ておられ、名刺交換。お酒は殆ど飲めない人だが、食事に何回か、おそらく何十回か、ご一緒した。なみの経済評論ではなく、現場できたえたリアルな感覚で、日本経済の先行きを診断される、その切り口が鮮やかだった。日興證券ロス支店長も歴任され、國際ビジネスマンとの交流が深い人だった。ベンチャー企業家を励ますのも忘れなかった。 
 80年代後半から90年代初頭、日本経済がバブルの頃、なぜか小生はラジオ短波(現在のラジオ日経)で早朝番組を持たされていた。早朝、ロスアンジェルスのマネー局と生中継、その場で同時通訳もやるというプログラムで、ウォール街の動きが、ただちに兜町に跳ね返るため、金利、為替の早聴き早読み番組で好評だった。なぜこの話をするかと言うと、小生がアメリカ取材で穴があくと、大先輩であることを顧みず、代役に三原さんをお願いしたことが二度ほどあり、あとで担当者から「速射砲のような英語でした」。 
それで初めて三原さんがノースウェスタン留学ということを知った。 
 ハーバードよりMBAでは難しい大学院。そして最新のアメリカ経済情報に通暁されているのは当然だが、米国へ行かれると、直感力で新しい経済学の本を見つけられ、速射砲のように翻訳をされた。バフェットの投資理論を紹介されたりの八面六臂。 
 ジョージソロスやウォール街の裏情報にも詳しかった。小誌の愛読者でもあり、よく中味に関しての電話をいただいた。 
 氏が担当したテレビ番組(日経bs放送)にも五回ほど出演した。テレビには出ない方針で討論番組などは断ったが、氏が司会で二人だけの討論番組というので喜んででた。 
 カバーする分野は異なるが、三原さんに何回か講演もお願いし、名古屋にも行って貰ったことがある。 
電話は必ず長話になって、逆に三原さんの主宰する勉強会にも十回ほど(ほぼ毎年一回)招かれ、さらに某自動車会社の社員研修会を三原さんがコーディナーとされていたので、やはり十回ほど同じ列車に揺られて講演に通った。また或る経済雑誌でも数回対談した。そのたびに夕食(ときに昼も)をするので、やっぱり五十回近くは一緒に食事しながら談論したことになる。経済の蘊蓄、アメリカ経済の見通しはじつに参考になった。 
 三原さんは旧満州生まれ、引き上げの際に弟さんを亡くされ、チチハル、新京(長春)、奉天(瀋陽)、大連近くの金山で育ち、当時のシナ人のことを実感として知っていた。引き揚げ船は胡廬島からだった。 
という話を何十回も聞かされていた。 
 小生の両親も引き上げ組なので話があった。小生の母方は佐賀、三原さんの両親は大分出身で、九州の地縁もある。 
 それで昨春、「毎年、小生は満州各地を黄金週間を利用して回っていますが、その瀋陽、胡廬島、金山にも立ち寄りますからご一緒しませんか」とお誘いしたら「そうですねぇ。引き上げ以来、一度も行ったことがないので。。」と参加されたのである。ツアーなのでエコノミークラスで。二日目の朝、北京空港で最初の印象は「中国では珈琲がまずいですね」。 
 北京から黒河(黒竜江省)へ飛び、ロシア国境の流氷を見てから、旧日本軍の拠点だった孫呉。そこでは犬肉レストランへ入った(ただし二人とも食せず)。夜汽車でハルビンへ。寝台車に乗る前に地元の観光局幹部も見送りに来て、持参した焼酎をぜんぶあけて軍歌を歌った。翌朝は残留孤児のメッカとなった方正県へ足をのばし、日本人墓地で祈った。「ひょっと間違えば、わたしとて残留孤児になっていたかも」と三原さんの感傷だった。 
 強行軍だったので、ハルビンから瀋陽へまた飛行機で飛び、市内を一巡。なんと三原さんの通った小学校があった。無言でじっと校庭をみていた。 
日本人町もまだ多少残骸があり、瀋陽駅(むかしの奉天駅)は東京駅とそっくり、煉瓦作りの建物が残っていた。そして旧「大和ホテル」のロビィで休憩、このホテルのロビィは甘粕大尉や川島芳子らが嘗て活躍した舞台だった。 
「すべてが懐かしい。親父に連れられてこの辺を歩いた」と言われた。 
 そこからまたバスで強行軍、二百キロを南下し、胡廬島へ向かった。私は開放されたばかりの胡廬島港と軍需工場へ視線がいくが、三原さんは、日本への引き揚げ船がでた港をみていた。茫然と佇立していた。 
感無量という感じで、「長年の夢が叶いました」。その晩は、宴会の酒を奢っていただいた。一緒だったのは高山正之、樋泉克夫、北村良和氏ら総勢十五名ほど。誰かが、「なんだか、今回の旅は三原さんのセンチメンタル・ジャーニーじゃありませんか」。 
 翌日、営口から大連、旅順とまわり、最後の晩はカラオケに繰り出したが、三原さんは疲れたので睡眠と早めに部屋に引き上げられた。 
 満州旅行はよほど強烈な体験だったらしく、帰国後は会う人ごとに「宮崎さんと行ってきた」と吹聴されていた。それからも数回、講演でご一緒したが昨師走に体調を崩され、2月8日に肺炎で急逝された。なにか運命的なものを感じる。合掌。

日興証券時代の友人の徳増典洪氏の追悼文です。

三原淳雄氏を偲ぶ     
徳増典洪(とくます・ふみひろ) 
 
 二月九日、氏の訃報を受ける。翌十日からの、久留米大学出張の準備中であった。学位審査の責任者を引き受けて避けられず、三原家とは縁深い妻に後事を託して西へ飛んだ。 
生を肯定する者には死は常に不条理、しかしそれなりの納得性を持つようになったのは、 
親しい人との離別が相次ぎ、私も確実にそこに近づいた年齢のせいであろうか。 
 氏との接点は一九七三年、アメリカはニクソン・ショック、ウオーターゲイト事件、石油危機と振り返ると多事・多難の時代ではあった。西岸のロスで留学生活を終えて、さてどこで半年のトレイニーを送ろうか。ニューヨーク支店の営業最前線の氏から突然の電話、有無を言わさず、こちらにいらっしゃいと。 
無責任な噂話は、私の耳にも氏の激しく、闘争的な性格を伝えていた。抜き身をぶら下げているようなむき出しの神経に接するには度胸が必要であろう。私の情報収集では氏の人物像はほぼ予想通り、加えて奥方の人柄を聞く。男の実像はしばしば妻の選び方に本音が出る。良き家庭は夫婦お互いの照り返し。私の情報源のトーンが変わった。夢見るような想定外(?)の言葉で、「奥様は天女のような方です」。そうかあ、なら旦那もやたら危害を加える狂犬ではあるまい。 
 氏の個室の片隅に机を置いて、私のニューヨーク生活は始まった。外国でのビジネスの動き、日米スタッフの管理、全てすこぶる興味深く、合間にはカナダを含めて機関投資家訪問にも同行の機会を得た。実践的な語学力、興味の先が多様で、会話が魅力的であることは終生変わらなかった。事務職の女性のクビ根っこに巨大なキスマークを見つけて氏がからかったが、いきなり氏の膝の上に座り、これは自分で噛んだの、という説明に私も吹きだした。氏の特性として、対話になるとなめらかな英語が出てくるという場面に幾度もでくわした。 
 以来四十年、クン・ローブを経て評論家の道へ。アメリカ市場を体感した練達の証券マンは理論に溺れず現実に淫せず、微妙な立位置で資本市場に軸足をおき、日本の株式市場の成熟化を求めた。権力に寄り添わず、大衆に迎合せず、長きにわたって評論活動をしていくのは半端な能力ではない。氏の強みは情報源の多様さ。事務所を訪問すると神田某氏(小椋 佳)が座っていたり、若き日の小池百合子氏も紹介してくださった。 
同じ留学経験、僧籍への近さ、氏の出身母校への私の就職といったつながりはあるが、 
氏との関係は紛れもなく、異業種交流である。 
著作のお手伝いはしたが、むしろ響きあったのは、別の世界。氏から立原正秋の作品を紹介され、わたしはイギリス体験に基づくカズオ・イシグロを強く推した。 
氏との(むしろ三原家)との繋がりが深まったのは、留学を終えて、一年ぶりに妻をアメリカに呼び寄せたおり(当時は単身赴任)、過労でひっくり返ったが、三原夫人が引き取って療養させてくださる幸運に遭遇したこと、私自身も帰国までの1か月あまり、三原家に居候したことである。トレイニー身分とはいえ、家賃・食費を負担した記憶はなく、ちょくちょく氏の下着も拝借した。若気のいたり、かなり厚かましい。たまさか、奥様の英会話学校への送迎、淳一郎君の世話と庭掃除を少々、ご近所衆からはどちらが亭主かと。 
 一九九三年、私が九州大学に奉職後は、福岡に所用のおりは声をかけてくださった。何度、ホテルで朝食をご一緒したことであろう。 
自らを誇ることなく、説教めいたこともなく、世相を独特の鮮やかな切り口で開く手際は爽快でもあった。ご自分も大学講師を務められ、現代学生気質では共通の話題となった。学生の論文では論理明快、文章見事となるとまずは剽窃(ひょうせつ)を警戒しなくては。氏は論文は手書きに限っていたそうである。私は音読させた。借り物で写した字が読めないというとんまな学生がいるためである。教師も仕事となると可愛いばかりで学生と接するわけにもいかなかったですね。 
 ニューヨーク時代に、髪を短く切られてベソかいた淳一郎君とは、長じて大島渚氏の媒酌で結婚式でお目にかかったのが最後である。 
お父上の危機には、身を挺してかばってくださったこと、死去された後おうかがいしました。立派になられたのですね。時の長さに感懐を禁じ得ません。 
再起を期して、事務所の書籍の整理を、ご本人の意向にそってお手伝いを始めて遠からずの死、急遽転換(大学図書館に寄贈)せざるを得なかった。あわただしいお別れとなりましたが、懸命に人生を駆け抜けた姿勢に、今もひときわ深い感銘をうけたこと、お付き合いできた幸せをお伝えしたかったです。かけがえなき妻(弘子夫人)と最高の秘書(南雲素子さん)と未来を託するに足る御子息と、そして私もよき後輩に加わることができれば幸いと。 
 一貫した強い姿勢を貫ぬき、わがまま一杯を通したようですが、挫折しそうな弱気の虫が頭をもたげた時に叱咤激励、簡単に諦めては困るのよ、と迫ったのは秘書と奥様と伺いました。わたしゃ、自由に生かされたのかもとの述懐は意外に的を得ていたのではないでしょうか。 
最後に病室でお目にかかり、わずかな時を二人でお話しました。三十年、二百八十三回も続いたマーキュリー・クラブのこと、奇しくも満州の小学校での在籍が判明した宮井氏(日興リサーチ)との会食を楽しみにされていたことも。寝がえりを助けてしばらく足を揉み、目を細めていらしたが、すでに生命体の持つ強い勢い、抗(あらが)いをなくして、私は密かに覚悟をきめました。   (合掌)