三原淳雄の言いたい放題 mihara-atsuo.com
プロフィール
三原淳雄
 

2011年02月24日
三原 淳雄

三原の言いたい放題を読んで下さっている皆様へ
 

 三原が亡くなってからもう三七日が来こようとしています。朝が来て、夜が来て時間があっと言う間に過ぎて行きます。悲しくもなく、寂しくもなく携帯に電話をすれば「はい、はい」とでてきて貰えそうな気がします。 
 
 三原の法名は「還真院釋浄淳」です 
 浄土真宗では「死を穢(けが)れ」と受け止めることはなく「死もまた我等なり」と受け止め生死するいのちを精いっぱい生きてゆくことこそ人間としての生き方であると示しているそうです。三原が精いっぱい生きたことは皆様が認めて下さると思います。 
 
 抜かりなく自分の葬儀を演出して逝った三原も慌てていたのか、大事なお友達の弔辞と淳一郎さんの挨拶が本願寺主催の講和の時間と重なり、参列して下さっている皆様にお聞きいただけなかったという全く三原らしい漫画チックなこととなり、三原も心残りと思いここに残させていただきます。 
 
 うれしいニュースとして、三原が最後までこれだけは出席したいと言っておりました中学生・高校生・大学生のための「日経STOCKリーグ」で「三原賞」を作って下さることが決まったとの連絡がありました。良かったー。 
 
 淳一郎さんが弔辞をお願いした金子様、野口様はお二人とも三原が信頼し、人生の半分以上のお付き合いだけあって、本当に三原が望んでいる通りの弔事がいただけ感謝していると思います。ありがとうございました。 

元日興コーディアルグループ会長 金子昌資様より

弔 辞 
 三原さん。三原さんにこのような形でお別れを告げることになろうとは全く夢にも思いませんでした。今こうしていて三原さんと話をすることができないなどということは全く信じられないのです。 
 昨年秋に体調不良で徳州回病院に入院された時でさえ、あの元気な三原さんが病に倒れることなど考えてもみなかったのですから。正に運命は突然に戸を叩いてやって来るのですね。 
 しかし入院後は優しく献身的な弘子夫人とご子息淳一郎、珠理夫妻の熱心な介護と病院の皆様の手厚い治療によって、回復に向かいましたね。1月に入って三原さんが久々に元気な声で電話をいただいたので、確か1月26日でしたかお見舞いに伺ったところ、とても元気なお姿で「いやー、実は今週末に退院するよ」と言われました。大変嬉しく感じました。 
 しかるにその後容態が急変され、治療の甲斐もなく2月8日早朝、肺炎が元で急死されてしまいました。 
 「三原さん。貴方は昭和34年九州大学経済学部を卒業されて、日興證券に入社されました。入社後は九州を中心として国内営業で大いに活躍されましたね。」 
三原さんが営業で頑張っておられた時代は同時に、昭和40年不況を乗り越えた日本経済が世界に大きく飛躍を始めた時でもありました。時代の動きに敏感な三原さんは会社の推薦を受けて米国、シカゴの名門校であるノースウエスタン大学経営大学院に留学されました。昭和45年のことでした。 
 日本経済の拡大発展と共に日本の証券市場も拡大、発展し、その勢いは国際証券業務の拡大へとつながってゆきました。留学を終えた三原さんは、国内で培った営業力を評価され、チューリッヒ支店、ニューヨーク支店と勤務をされて昭和49年には米国日興証券のロスアンジェルス支店長へと昇格されました。 
 私が直接三原さんと仕事をさせていただくことになったのは、このニューヨーク支店の次長として赴任されてきた時に直属の部下として働くことになってからのことでした。 
 当時の日興証券の国際部門では、名古屋に本社を置く中京電機が米国の筆頭株主(約10%)に対し、全株式を売却するように説得して欲しいという依頼を受けておりました。この株主は大変に難しい方で、何年にもわたって売却拒否をしており、中京電機の経営問題となっていました。 
三原さんは赴任するや否やこの件を片付けるべく、ニュージャージ在住の株主を私を連れて度々訪問し、説得を重ねて最終的に売却の合意を得たのです。 
 この結果には中京電機のトップはいたく感激され、その後わざわざニューヨークまでお礼に来られた程でした。この交渉を通じて私は三原さんのお手伝いをしながらビジネスに於いては行動力、説得力に国境は無いという事を学ぶことができました。 
 三原さん。貴方はこのように活躍しておられましたが、当時の日興證券のトップと意見が合わず帰国後退社されましたね。そして昭和55年に三原淳雄事務所を設立し、経済評論家として独立されました。その直後に「誰も書かなかった香港」という内幕物を書いてベストセラーの一つとなりました。 
 私はこの時初めて三原さんの優秀な観察力と分析力、頭脳明晰さに気付かされました。三原さんは単なる優秀証券マンではありませんでした。 
 この本を出版してからの三原さんはジャーナリズムの評価の対象となり、テレビ東京の「ニュースモーニングサテライト」に、その前身の「マーケットライブ」を含め14年間にわたりキャスターないし、コメンティターとして活躍されることになりました。これに加えて日経CNBC「三原&生島マーケットトーク」という番組を生島さんと共に8年間担当されました。 
 三原さんがキャスターとして又コメンティターとしてジャーナリズムで活躍されたときは同時に又資本市場、証券市場に問題も起きた時期でもありました。 
 日本経済のバブルが弾けた平成2年から8年の間にはいわゆる損失補填問題が起きました。世論が損失補填をした証券会社を厳しく糾弾しました。証券界のトップが国会で喚問されました。 
 こうした風潮の中で三原さん、あなたは「する方も悪いが、させる方も悪い」とメディアを通じてはっきりと主張されましたね。正に正論でした。この主張に対して「三原は怪しからん事を言う」と非難ごうごうの嵐になりましたし、三原さんは「日本という国は本当のことを言うのに大変勇気がいるなあ」と平然としておられましたこと憶えております。 
 メディアを通じて経済評論家として活躍される三原さんは常に正論を掲げ、権力に対峙し、右顧左眄することもなく、又お金によって主義主張を変える様なことも決してせず、頑固なまでに自説を貫き通された極めて勇気あふれる方でした。 
 一方で一国の経済は強い資本市場によって支えられるとの信念の下に数多くの個人投資家との会合に出席して証券投資の大切さを広める努力をされました。FP協会を立ち上げ、又IFA理事長として投資アドバイスの質の向上にも努力されました。そうした多忙の中でも有名な米国ファンドマネージャー、ピーター リンチ氏を日本に紹介し、又ウォレン バフェット氏の著作を翻訳するなど旺盛な執筆活動によって約100冊の著作を残し証券金融分野に多大の貢献をされました。 
 三原さん。貴方はニューヨーク勤務時代以来、私を「サム」「サム」と呼んでくれましたね。「サム」とは私が米国勤務以来使っているファーストネームでした。三原さんは私の姓を呼ばずにいつもファーストネームを使っておられました。私が日興の役員になった時も同じでした。私は本当に嬉しく思っていたのです。そこに立場や状況によって変わることのない本当の三原さんの友情と愛情を感じたからです。 
 三原さんは良き家庭人でありました。弘子夫人を心より信頼し、愛しておられました。そして長男の淳一郎君が生まれてからは、ずうっと親ばかでもあり、子煩悩でした。 
 三原さんはその人徳もあり、ゴルフ好きもあって三原杯を設けて多くの人とゴルフを通じて交際されていました。私もよくゴルフに誘われ楽しい思い出が一杯です。淳一郎君が大きくなって親子でゴルフができるようになって益々喜びが増えておられたようです。その淳一郎君の長男、すなわち三原さんのお孫さんが3年ほど前より一緒にゴルフができるようになり、親子孫の3人でよくゴルフに勤しんでおられました。ここ2年ぐらい前から、三原さんから電話があると2回に1回は「先週末に孫とゴルフをして、負けそうになったよ」と嬉しそうに、楽しそうに話をされ、孫の無い私は大変に羨ましく感じたものです。 
 でももう今日からお電話をしてもでられませんね。残念です。でも仕方がありません。 
 「これがきっとこの世の定めなのでしょうね」とあきらめます。 
 三原さん、本当に楽しく意義ある人生を一緒に過ごさせていただき、ありがとうございました。今日からは極楽浄土に行かれて仏様になって我々を見守って下さい。これでお別れします。 
 さようなら。 
 
平成23年2月11日 
金子 昌資 

元 みずほコーポレート銀行専務執行役員、元 飯野海運 代表取締役会長 現アイセック・アルムナイ・ジャパン会長 野口 章二 様より

弔 辞 
 三原先生 ご霊前に謹んで哀悼の意をささげます。 
 特に快方に向かっていたと思われていた矢先の突然の訃報にご家族の悲しみはいかばかりかご同情申し上げます。 
 先生に初めてお目にかかったのは丁度40年前の1970年、大阪万博の年で、場所は米国カリフォルニア州サンタ バーバラでした。先生はノースウェスタン大の大学院、私はカリフォルニアだいの大学院への留学前のサマースクールで、7,8月の2ヶ月間寄居を共にし、日本食党の先生の指示で炊飯器を買い求めてお米を炊き、ふりかけをかけたり梅干のおにぎりをつくったりしておりました。先生の留学先であるノースウェスタン大学のビジネススクールは、当時からハーバード等と並ぶ名門校で希望者も多かったのですが、先生は全く何の苦労もなしに一発で合格しており、皆から強運の持ち主などとやっかみ半分の冷やかしを受けておりました。 
 この大学にはその後ご子息の淳一郎さんが勤務先の興銀から行費留学生として留学され、マスターコースの卒業式にご夫婦で出席されました。その折、大学の新聞に親子二代の快挙として大きな記事になったことをうれしそうに話していた先生の子煩悩な笑顔を昨日のように思い出します。 
 先生はその後1980年に独立されましたが、労働市場のモビリティーがない終身雇用全盛時代に敢然と一匹狼として生計をたてるというのは大変勇気のある決断であり、それを立派に成し遂げた強い意思と実行力に対し心からの敬意を表したいと思います。独立して2~3年後に先生は月一ペースの勉強会を立ち上げましたが、昨年10月19日で283回を数えました。この会は8月と12月は休会なので、283回は29年目に入っている勘定になります。これだけの長期に亘って勉強会が続いたのは、先生をしたう多くの投資家のサポートがあったこともありますが、先生の「潔ぎ良い生き方」が広く共感を得ていたという面もあったように思われます。 
 又市場関係の情報番組を日本のTV番組として成功裡に立ち上げたことも先生の大きな功績の1つと言えましょう。先生はスポンサーの確保迄一人で全部アレンジしてその上アンカーマンまでつとめた多才な能力を発揮されました。 
 この間先生がお書きになった著書は95冊、1999年には証券業界への長年の功績により「東証ペン文化賞」を授与されています。95冊というのはあと5冊で100の大台になる計算で、勉強会の方もあと1,2年もあれば30年という大台達成は十分可能だっただけに本人は残念だったと思われます。 
 最後に先生が注力していたのは若い人に対する「教育」であります。この中で、日経、野村との協賛で行っている中・高・大学生のための株式学習コンテスト「日経ストック リーグ」については、次の審査打ち合わせが2月22日に予定されており、先生は何とか病気を治してこれに出席するとおっしゃっておられたそうです。 
 また日本IFA会の会長として直接学校(中高大)に出向き、フェース・ツー・フェースで金融・証券などのレクチャーを行うというプログラムも次第に軌道に乗ってきており、昨日も10人以上の立教大生が先生のお通夜に参列しておりました。 
 先生に旅立たれ、残された我々としては先生が始められたこのプログラムを皆で分担して引き受け、これを着実に前進させることをお約束してお別れの言葉と致します。 
 先生本当にご苦労さまでした。どうか安らかにお休みください。 
 
平成23年2月11日 
野口 章二